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国際家族がコロナ禍で経験したこと

2020年から2年越しで続いているコロナ禍は、私たちの社会に大きな影響をもたらしています。中でも国や地域がロックダウンと呼ばれる閉鎖を実施し始めると、国際家族はますます翻弄されることになりました。

以下のレポートには、ある会員の実体験がつづられています。国籍の有無や種類で、自由な行き来が阻まれてしまうなどどいうことを今まで誰が想像したでしょう。法に反することをしたわけでもないのに、家族が引き離されてしまう悲劇が実際に起こってしまいました。安全を守るためやむを得ないと考える向きもあるかもしれませんが、当事者がどのような思いでいたのか、少数者の視点もご紹介したいと思います。

(尚、こちらの記事は2021年4月発行の会報誌に載っています。ホームページ上で公開されていますので、この他の記事もお読みいただけます。)


 

2020年コロナ禍での我が家

M.Y. 関連国カナダ


夫は母親の手術のため2ヶ月の予定でカナダへ

カナダ・トロントで1人暮らしをしている義母に脳腫瘍が見つかり、昨年4月に手術をすることに決まりました。1人息子の夫は、母親が歩行困難になり始めたため、その手術前後約2ヶ月の日程で航空券を手配し2020年3月12日東京を発ちました。トロントがロックダウンとなったのは現地に到着するかしないかの時でした。

その後手術の実施について担当医の判断が二転三転した後にキャンセルとなり、夫の日本帰国の目途は立たなくなりました。その頃既にオンタリオ州では、必要不可欠ではない事業の営業停止命令、外出規制が出されていました。手術は未定のまま義母の筋力はあっという間に衰え、義母が寝たきりの状態に近くなってようやく緊急性が高いと判断され5月下旬に手術が行なわれました。

術後に移ったリハビリ病院から8月中旬に退院した時は、義母は再びひとりで生活できるまで回復するのか分からない状態でした。それでも、入院中はコロナのために夫が付き添うことも見舞うこともできずにいたので、自宅に戻ることができ皆ひと安心しました。


環境の変化が娘や夫や私に与えた影響

一方日本では、3月始めからの突然の小中高の休校要請が出され、3月半ばの娘の卒園式を終えた頃から徐々に外出を控えるよう呼びかけられ、習い事も中止、買い物や公園へも出掛けにくくなりました。緊急事態宣言が出された4月、小学校は入学式の翌日から休校となり、学童保育所からも自宅育成を促され、完全な自宅待機となりました。私個人で開いている子どもの絵画教室は休みにしましたが、翻訳やデザインなど自宅でできる仕事は続けていましたので、毎日自宅で娘と2人きりで過ごすのは辛く、姪(小3)と甥(小1)に可能な限り泊まりに来てもらったりし、子ども同士で遊び、助け合ってどうにか乗り切ることができました。

ただ、環境の変化に反応してか娘は自宅でも私の姿が見えないとパニックになり、外では踏切が怖くて渡れず電車にも乗れず、前から歩いてくる犬も自転車も怖がり手が掛かるようになっていました。6月に入ると学校の分散登校が始まり、少しづつ学校や学童へ通えるようになると同時に私の教室の仕事も再開しました。密を避けるためのクラス分けをしたため時間が掛かり、娘の迎えを実家の母に助けてもらったりしました。

9月後半になると義母は次第に回復し、夫は冬になる前には日本へ帰りたいと情報収集を始めました。夫は半年の間、母親の家で自分の居場所もなく外へも出られずノイローゼ気味でした。私は15年振りのギックリ腰と、全く好きではなかったお酒に手が伸びる機会が多くなり、娘は「パパはもうかぞくじゃないみたい」と淋しがってパパのTシャツを抱いて寝ていました。娘の迎えを往復2時間かけて週2-3回してくれていた母も「体力の限界」だと言い始めていました。


一番のハードルは出国前72時間以内のPCR検査陰性の証明書

外国人は「特段の理由がない限り上陸を拒否する」とされており、日本人の配偶者である夫は「特段の理由」に該当したため入国は可能とされていましたが、特別な手続きが必要でした。中でも一番のハードルは出国前72時間以内のPCR検査陰性の証明書の取得でした。当初は外国籍の者だけに義務づけられており、日本国籍を持っていればその必要はないという不当な条件でした。

夫は保健所や病院、市、州、国の役所など思いつく全ての所に数週間かけて問い合わせたものの、検査機関ではコロナ感染の症状がある人が優先されており、もし仮に検査を受けられても結果が出るまでに最低1週間は掛かるという所ばかりでした。みんな「Good luck」と言うだけだと夫は嘆きました。ジャパンタイムズ紙*にもその条件が壁になっていることが記事になっていました。夫は運試しのように搭乗72時間前に検査を受けてみるしかないと諦め、航空会社にキャンセル料が掛からないことを確認して10月初旬の航空券を予約しました。

私は既に7月に空港での対処や入国後の条件を調べ、厚生労働省隔離政策相談窓口へ電話をしました。その時点では空港でPCR検査を受け、結果が陽性の場合は指定の場所で待機。陰性の場合には帰宅できるが14日間の自主隔離が必要。自宅が無理な場合には指定の宿泊施設を利用。空港からの公共機関の使用は禁止。自家用車で家族が迎えにいく、レンタカー、ハイヤーを使用する。指定の宿泊施設を利用する場合には費用の自己負担はない、との答えでした。


たらい回しの対応をする省庁窓口は短期雇用のアルバイト

9月になって再度問い合わせると、PCR検査から抗原検査に変更され結果が出るまでの時間が短縮されていたのは良かった点でした。しかし今度は指定の宿泊施設を利用する際は全額自己負担だと言われ、無料だったはずだと尋ねると、初めからずっと自己負担だったとの説明。また、「指定の宿泊施設」についても自分で好きな宿泊施設を探して利用との説明でした。その他にも以前と異なるところがあったので聞くと、法務省に問い合わせをと言われ、法務省に電話すると厚生労働省の担当だと言われ、出入国管理局に電話してみるようになどたらい回しにされました。結局厚生労働省の窓口に戻り話し聞くと、そこの相談員たちは短期雇用のアルバイトで、内容を詳しく理解せず誤った解釈で対応している相談員がいるのだと分かりました。そんな無責任な!とちょっといじわるな気持ちになり「もし迎えにくる家族がなく、免許がなくてレンタカーも使えず、経済的にハイヤーもホテルも使えなかったら、徒歩で家まで帰るのですか?」と言っても、返事は「さようでございます」。「陽性でホテルに宿泊しても食事のために外出せざるを得ないと思いませんか」と言っても、「さようでございます」と答えるだけでした。


予定通りの便に間に合った!体の震えが止まらなかった夫。

航空券を予約し、ようやく帰国と本人も私達も喜びましたが、州の検査機関が条件を変更したり、便がキャンセルになったりして延期が続きました。しかしその間に、夫が友人から得た情報を元に問い合わせたWomen’s College Hospital(WCH)から初めて、72時間以内の結果通知の可能性があるという返事が得られました。

もうひとつ残っていた懸念は、日本政府の指定書類に検査結果証明の署名をしてくれる医師がいるかどうか、でした。義母の主治医や知り合いのつてで医師に相談しても良い返事をくれる人はなく、WCHでもその証明書については曖昧なままでした。結果的には検査陰性の証明書に医師の署名をもらうことができ、予定の便にも間に合ったのですが、それも病院中を走り回った末に掴んだ運みたいなもので、不安と緊張が極まっていたのか、全てが済んだ後もしばらく夫の体は震えが止まらなかったそうです。

そのようにして夫はようやく日本に帰ってくることができましたが、入国後2週間の隔離についても「海外渡航歴のある人(特に外国人)=ウィルス感染源」というような雰囲気があったため慎重にならざるを得ませんでした。自宅に海外から戻ったばかりの外国人がいるのに娘や妻は学校や仕事で人と接している、と悪い噂になるのではないかとの懸念から、自宅ではなく長野にある山荘で2週間過ごしてもらいました(山荘の存在はとても幸運でした)。周囲には内緒にして空港から山荘へは私が車で送り届け、政府の規制ではその途中(約5時間)公衆トイレの利用も禁止でしたがもちろんそれは無理な話でした。

また、沢山の食料と必要な物はあらかじめ用意して行きましたが、2週間の間に食べるものは足りなくなり、デリバリーなど対象外の山の中ということもあり夫は私が置いていった車で買い物に出掛けるしかありませんでした。そして12月6日、9ヶ月振りに夫は自宅へ帰ってくることができました。


義母の淋しさを早く癒してあげたい。自由に行き来できる日を!

新型コロナウイルスのパンデミックと海外に暮らす親の世話が重なったことによる大変だった面ばかり書きましたが、もし義母が病を抱えてこのコロナ禍で1人きりになっていたらもっと深刻なことになっていたでしょう。親戚が少なく息子が遠い日本で暮らしている淋しさを隠せない義母ですので、今回の夫の滞在は親孝行になったのではないかと今は思っています。そして早くこの状況から世界中から脱し、また国を自由に行き来できる日が来ることを心から願っています。


(写真:子ども達が送ったお見舞いの手紙も、航空郵便の停止で戻ってきてしまいました。)

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